定願寺にとっても四條村にとっても大変貴重な資料になりますのでここに紹介させて頂きます。
テーマ 「めったにない古い村、四條村の歴史と素晴らしい定願寺の歴史」
日時 2007年8月4日(土)午後7時より
場所 小丘山定願寺本堂にて
講師 岡田収義氏
後援 円明寺住職 髙島章・岡田尚士・楠正知
〔第一部 四條村の歴史〕
総代の岡口様からご紹介いただきました岡田でございます。大変お疲れでございますのに大勢お越し下さいました事、感謝いたしております。定刻になりましたので、これから始めさせて頂きますが、これからお話しします事は、既に皆様のご承知の事ばかりで大変失礼な事かと思いますが、どうぞご理解くださいます様お願い申し上げます。又、「めったにない古い村、四條村の歴史と素晴らしい定願寺の歴史」と云うテーマでお話しします時、とても2時間や3時間ではおさまりませんので、取り急ぎ要点のみのお話になります事、お許し頂きたく、重ねてお願い申し上げます。尚、この催を行いますに当たり、定願寺様、又、門徒総代の方々、特に若院主の楠正知様、岡田尚士様、勝山にございます圓明寺の高島章ご住職には、大変なご協力を頂きました事、心から感謝いたしております。
それでは始めさせて頂きます。ご承知の様に明治22年の町村制の施行にともないまして、四條村、西足代村、大地村、矢柄村、伊賀ヶ村の五つの村が同一戸長、又、民情を共にいたしますことから合併いたしまして、その地域が大阪城から見て巽(辰・巳)の方角に当たります事から、五ヶ村の総称を巽村となった事はご承知の通りでありますが、それ以前はどうであったかと申しますと、永い永い歴史の中で、この村は河内ノ国渋川郡四條村と呼ばれておりました。そこで、まず河内国や渋川郡におけますこの村の地理的な位置の関係についてご説明致しますと、この本堂の正面の濡れ縁に東向きに立ちますと、正面に生駒の連山が横たわっておりますが、これに向かって両手を広げますと、この両腕の中にある景色は全て河内ノ国で、つまり北は淀川、東は生駒・金剛の峯、南にまわって葛城山から和泉山脈、そして西側はと申しますと、この村の直ぐ西を流れております平野川でございます。ご承知の様に川は流れる所や時代によって呼び名が変わりますが、往古の昔、平野川は百済川と呼ばれておりました。この平野川は南東の方角からやって来まして、北西の大阪城の方へ流れておりますが、摂津の国と河内の国の国境線は、四條村までは平野川でありますが、四條村の山小路、つまり田島村の墓のところから国境線は平野川ではなく、東に折れて玉造江と云う浪速の入り江の中に国境線を引いております。つまりスーパー万代の西側の細い道、田島中学の東側の塀にそって北上します。つまり四條村が広い広い河内ノ国の最西端、三角形の頂点に位置しております。河内ノ国の村数は江戸時代のなかばを過ぎますと新田開発等で村数は少しづつ増えてまいりますが、たとえば元禄時代、忠臣蔵でおなじみでありますが、元禄時代で511ヶ村ございましたが四條村はその最西端に位置しております。
次に渋川郡について申しますと、河内には河内平野を形成しました五つの自然の川がございます。これを河内五川と呼びますが、西から順に平野川、長瀬川、長瀬川は大和川が今日の様に堺と住吉の間を流れる様になりましたのは、宝永元年(1704)の事でありますが、それ以前は長瀬川が大和川の本流でございました。そして、その東に楠根川、玉串川、恩智川の五つの川であります。定願寺の古文書に渋川郡は橘島の内なりと書いてありますが今の人にはとても考えられない事でありますが、古代の人はまるで宇宙船から見下ろしていたかの様に、この平野川と長瀬川に囲まれた地域を1つの島と見立てて橘島と呼んでおりました。従って今もこの地域の神社の神紋はいずれも橘の紋でありますが、渋川郡の村数は元禄時代、河内ノ国511ヶ村の内の25ヶ村であります。又、渋川の地名が最初に出てまいりますのは、日本書紀で用明天皇の2年に聖徳太子が仏敵であります物部守屋の渋川の館へ討ち入ると書かれているのが最初であります。
次に四條村の村名の起りについて申しますと、四條村の村名は白鳳時代に制定されました、大宝律令の条理制の第四条に当たるところから四條村と呼ばれております。河内平野の条理は、ちょうど近鉄奈良線の少し南から線路を平衡して第1条が始まり、2条、3条と南下いたしまして、四條村がちょうど4条に当たります。
(資料1)これは加美村誌の条理の説明でありますが、ここでも「巽町の四条がこの条理の四条に当たっている」とあります。尚、巽神社誌をはじめ至る所で四條村は南北朝時代や室町時代、四条畷の西にあるから西四條村と云うとありますが、その様な事はございません。
(資料2)これは定願寺記録(定願寺古文書)でありますが、ここでは「西四條ト云サレバ東四條ニ対シテノ名也、西四條ト云ハ本ハ山小路一斬ノ在名ニ限ル也」とはっきりと山小路だけの地名であると明確に云っております。「則 天神宮ノ氏子也 此在所天正年中ニ西四條村ヘ家ヲ引越居ス、コノ時ヨリ西四條と云ヲ西ト云字ヲ捨テ 唯四條村ト云也」とあります。
ご承知の様に四條村は北四條村と南四條村の二つの集落がございましたが、この四條村が本郷で北四條村でありまして、巽南小学校のあたりにあった南四條村とは別に、新巽中学の東側あたりに数軒の屋敷がございました。その数軒が村の東にあった事から東四條村と呼ばれていましたが、天正年間に楠・定願寺のある山小路つまり巽南1丁目1番地に引越された事から、東西の区別をする必要がなくなり、単に四條村と呼ぶ様になったのであります。
次にご承知の事ではありますが、四條村の村領すなわち四條村の領域について申しますと
(資料3)この様になっております。上は両国橋の東側にあります安泰橋の東南詰に始まります。平野川は昭和30年頃から度重なります改修工事でこの様にまっすぐに流れておりますが、明治18年に陸軍参謀本部が測量いたしました2万分の1の実測図にあります通り、極端な蛇行をしておりました事はご年配の方々のご記憶の事であります。平野川は田島村の墓の西側を田島市場の方へ流れておりましたが、この様に摂津と河内の国境線は田島村の墓から東へ折れ、浪速の入江であります玉造江の中に引いております。摂津ノ国と申しますと、これより 西へ大阪市全域、尼崎市全域、神戸市全域、有馬市全域、三田市全域にまたがる広大な地域ですが、その始まりが平野川であり、スーパー万代の西側の細い道が国境であります。又、四條村と大地村の村界は田島中学校の塀の東北詰から東へ延びる道、ここを大地の西口といいますが、円徳寺の南側のこの道が四條村と大地村の村界であります。これが旧のバス道でありますが、これを南へさがります。ここに以前自転車屋さんがありましたが、
(資料4)ここに映っている家々は全て四條領に建っています。この角に福井さんと云うお酒屋さんがありますが、ここも四條村領でありますし、地下鉄南巽駅も巽神社も四條村の領内にあります。
(資料5)ここから南は加美村領と接しておりますが、昔の境界はもっとまっすぐでありました。四條村の面積は69町48反巽村五ヶ村で一番大きな村であります。又、江戸時代 村の規模や村力は米の採れ高であらわしておりました。四條村は近在の村々から四條の千石柱と云われましたが、四條村の村高は888石8斗6升3合、五ヶ村で一番大きな村であります。又、集落はこの様に本郷であります北四條村と南四條村の二つの集落がございました。南四條村は桑原氏中心の村で、巽南小学校の東半分と城東運河にまたがる約15戸程の小さな村でありましたが、幕末に離散され、今林村に移られた家もあった様でございます。
次に四條村の史跡についてご説明いたしますと①は国の史跡に匹敵する横野堤跡であります。田島村の墓の東側の今の地名は巽南1丁目1番と申しますが、昔の地名は河内ノ国渋川郡四條村字山小路と云う地名でございます。この山小路について定願寺の「開基正長に係る記録巻物(古文巻物)」には、山小路と云うのは山形の丘堤で、平野川堤から東へ枝分かれする1町程の堤だと書いてあります。1町といいますと約110メートル程の堤でありますが、これが日本書紀で仁徳天皇の13年、西暦に直しますと326年に築かれた人工の堤、横野堤でありますが、定願寺の古文書には、「この堤は大坂城落城の時1夜にしてその堤を取りこわし、その土で広野から岡山の間、つまり平野から御勝山の間に道を築いた、今は堤はないが、山小路と云う田地の名に云う」と書いてあります。楠さんの家紋は菊水でありますが、これとは別に山形の紋を使っておられました。又、寺号が小丘山といいますのも、山小路のふもとに寺を建立されたからであります。万葉集にこんな歌があります。「霜枯の横野の堤風さえて入汐遠く千鳥鳴くなり」と云う歌がありますが、この歌はまさに山小路の堤から北方の玉造江を望んだ様子を歌ったものであります。こんな古い史跡をもつ村はめったにございません。
②は楠・定願寺発生の地であります。楠・定願寺の素晴らしい歴史につきましては後程定願寺記録をご紹介し、ご説明させて頂きますが、楠正成の孫に当たります、楠三郎兵衛尉正長は新巽中学の東側あたりにありました、空海(つまり弘法大師)建立の桑原寺で育てられましたが、後年楠一族の古戦場を弔ってまわられ、齢41歳の応永19年 西暦1412年に山小路にお住みになって道場を構えられました。②が定願寺発生の地でありまして、明治に入ってここにお移りになったものであります。
③はこの村の神社跡であります。北四條村の神社は、ここ山小路にありました八幡神社、つまり横野堤にあった横野神社であります。今はなんの痕跡も残っておりませんが③のところにこの村の神社がありました。
(資料6)これはこの村の神社の戸籍謄本であります。右肩に堺縣とありますのは明治4年の廃藩置県でこの村は一時、堺縣に属し、八尾の群役所の管轄であったからであります。四條村字山小路村社天神社となっておりますのは、明治維新に巽南4丁目2にあった天神社が廃社になったため、天神社の御霊を山小路の八幡神社に移して山小路は天神社と名前を変え、そして明治40年の巽神社への合祀をいたしました。
(資料7)これは村にとって貴重な史跡でありますこの村の神社跡を、巽神社が切売なさった時の売買権利書のコピーであります。今この神社跡に住んでおられる方の物で昭和45年1月に、こぞって巽神社に行かれ、手続きをされたそうであります。神社跡を顕彰していない村はありません。
(資料8)④は河内七墓の1つで奈良時代の高僧行基が開いた四條村の墓であります。行基は西暦668~749年の人でありますが、その業績があまりにも偉大でありましたから、人々は生前中に行基菩薩、行基菩薩と呼んでおりました。聖武天皇は奈良の大仏の建立を行基に託し、自ら行基の指示に従って役夫になり、着物の両たもとに土を入れて運ばれたそうであります。四條村の墓の火屋は2つの火葬穴がありましたが、東側の穴が行基の火葬穴といわれ、一般に使われなかった様であります。江戸時代、河内には五百何ヶ村もの村がありましたが、古い墓七つをめぐる河内七墓めぐりと云う風習がありました。墓の正面の迎えの地蔵さんは非常に古い石仏でありますが、その上に河内七墓の1つと書いた額が上がっておりますが、これは共同墓地であります正覚寺村の西野さんとおっしゃるお方が上げられたそうであります。
(資料9)これは巽神社誌の118頁に出ていた資料で幕府の役人や村役が持っていた、云うなればガイドブックでありますが、ここに「墓所 二カ所 四條村の墓、荒馬ノ墓 是行基ノ開墓也」とあります。つまり奈良時代すでに四條村の集落があったと云う事であります。日本の国史に出てまいります平野郷でさえ、平安時代初期の坂上広野麿呂に始まります。四條村はめったにない古い村であります。
(資料10)⑤は農家のご年配の方がご存知の四條村の平野川の取水樋の跡でございます。柏原の青地の樋に始まって、平野川筋には17の樋がございます。この樋があると云う事は、古い村である証でありまして、加美村誌では、ここから下の田畑40町歩の水をまかなったと書いております。この樋は行基の灌漑樋で、正覚寺村の墓が四條村にある事と関係があるのではないかと思っております。
次に⑥でございますが⑥は四條村の平野川の船着場跡で、ここに四條の船着場がございました。申すまでもなく平野川は摂津・河内・大和を結ぶ水運の動脈でありまして、江戸時代、長さ7間4尺、幅7尺の20石積の柏原船が行き交い、大和の木材や米、河内の木綿等それぞれの物産が船で運ばれておりました。巽村五ヶ村で唯一平野川をもつ四條村の船着場でございます。又、船着き場は「浜」や「洗い場」とも呼ばれていましたが、壇尻(地車)の足洗いもここで行われておりました。
⑦は村の発展を妨げると云う事で、昭和50年に平野区画整理組合の手で取り壊された四條村の平野川堤でございまして、これが中高野街道でございます。ご年配の方はご承知の様に堤の高さは3メートルから4メートル、くねくねと曲がりくねった自然堤防で、明治の中頃ぐらいまでは堤の両肩に松の老木が生い茂る、まさに街道の風格をもつ見事な景色でありますが、この堤が中高野街道でありました。聖徳太子も四天王寺の東門に通じる、最短距離であるこの街道を何度も通られたに違いないと思っております。又、室町時代、京の都から吉野・熊野・高野への参拝は船で淀川筋を下り、玉造江に入って来て、山小路の北側に上陸され、この堤づたいに高野へ向かわれた様であります。
(資料11)これは巽神社誌の口絵であります。寛保3年1743年の道と川を現した絵図でありますが、赤い線ではっきりと四條村の平野川堤が街道である事を証明いたしております。
(資料12)これは墓の前のメガネ屋さんの大野ますゑさんが私がここへ嫁いで来た時は、こことここに大きな松の木がありましたと言って私にこの絵を書いて下さいました。堤に8本程の松の木の印があります。
(資料13)⑧は非常に古い四條村の手間天神社の跡でございます。祭神は最も古い国造りの神であります、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の指の間からこぼれ落ちた少産名神(すくなひこなのかみ)を祀った神社であります。私は生玉神社をはじめ神社の歴史のご専問の方にいろいろとお聞きしましたが、口を揃えてこれは非常に古い神社で、いわゆる平安時代の菅原道真信仰よりはるかに古く、一般に云う天神社ではなく、あまつ神の社であると言っておられました。又、この神社は非常に大きな神社で、馬場先の長さだけでも105間つまり190メートルもありました。
(資料14)この神社にありました石灯籠が今、法蔵寺にありますが、竿には手間社、又、台座には大日本廻国と彫んであります。大日本廻国といいますのは、国内の66巡礼所の1つで、いかに四條村が古い村であるかを物語っております。
(資料15)次は⑨であります。定願寺の別の古文書、「正長に係る記録巻物」に書いてあります通り、新巽中学の東側に空海つまり弘法大師(774~835)建立の桑原寺がございました。正覚寺村で生まれられました正長公はこの寺にあずけられ阿闍梨祐存のもとで育てられまして、ここで成人なさったのであります。詳しくは後の定願寺の所でご説明いたしますが、こんな古い村はめったにございません。
次は⑩でございます。ここは皆さんもご承知の様に大正14年に皇居を拝すべく設けられた遙拝所でございまして、神社跡ではございません。先程も申しました様に、この村は自分の村の神社跡にはなんの印もありませんが、そんな村はめったにないと思っております。尚この遙拝所の中に天神宮跡と彫んだ石柱が立っておりますが、誠にまぎらわしい事で、すみやかに元の巽南4丁目2の公園へ移し巽南1丁目1番に横野神社跡の碑を立てるべきだと思っております。
次の⑪は四條村の領内にあります巽神社でございます。大地村の氏神、つまり大地村の神社はこの巽神社の中にございました。以上、四條村の素晴らしい史跡の数々について、とり急ぎ要点のみをご説明いたしましたが、今、その四條村の歴史がどうなっているかと申しますと、いたる所で歪められ、有りもしない歴史になっております。
(資料16)これは2002年に出版された平凡社の日本歴史地名大系であります。表紙は合成皮革張りの大辞典で、全47巻から成っておりまして、日本国中の村々の歴史を紹介した大辞典でありまして、その村はどんな歴史をもっているかを現した、郷土歴史の鑑になる大辞典であります。
(資料17)郷土史を研究する人も、学校の先生も、生徒もこれを手本にします大辞典でありますが、
(資料18)この通り四條村は大地村の末尾にたった8行、四條の歴史の事はなにも書いておりません。これに対し、大地村は2頁94行にわたって四條村の歴史を取り込んだ内容をルル書いております。円徳寺だけでも25行にわたって書いてありますが、めったにない古いお寺、定願寺はお寺の名前だけであります。四條村は巽村五ヶ村で1番大きな村、一番歴史のある古い村でありますが、この辞典では四條村のことを「大地村の南にある村」と書いております。誠に失礼で四條村のご先祖はさぞご立腹のことだと思っております。又、巽神社は四條村にありますのに「大地の巽神社に合祀した」と書いております。この地域の誰かがこれにかかわっておりますが、私は再三にわたって平凡社に抗議しましたが、平凡社は逃げの一手であります。
(資料19)この大辞典が次々と引用され歪められた四條村の歴史が定着しつつあります。
(資料20)これは巽小学校が創立百周年に当たって昭和50年に発行された巽創立百年記念誌であります。ご覧の様に旧平野川堤道復元図とありますが、まったくデタラメな図であります。平野川は高さ3メートルから4メートルの、くねくねと曲がりくねった自然堤防の中を流れておりますが、この堤は何億年と云う歳月をかけて、川自身が徐々に、徐々に築き上げた自然堤防で、人類が地球上に生息するはるか何億年も前の地貭時代の話で、その位置は有史以来変わっておりません。この図はありもしない所に空想の堤と川を画いて村落発生の起源に重要な平野川を大地村に取り込んで、四條村を川の中にほうり込んでおります。又、図にはヨコオと書いておりますが、横野堤をほのめかした造語でその用な言葉は存在しません。この図はたとえて言いますと江戸時代、生駒の山は大阪の街の中にあったと言っているのと同じ事であります。一番大事な事は、山小路をこんな所に持ち出して印をしておりますが、山小路と言いますのは、日本書紀で仁徳天皇の13年、西暦326年に築かれた横野堤、つまり巽南1丁目1番の昔の地名であります。つまり巽南1丁目1番を巽西3丁目9番のあたりに持ち出しております。図に横野神社と書いておりますが、これは巽西3丁目9番の横野神社跡の碑が立っている所の事でありますが、あそこは横野神社跡ではありません。あそこは、四條村と大地村と田島村が本当の横野神社をめぐって壮絶な村争いをした印の地で神社跡ではありません。村人同士が石を投げ合い、鍬を振りかざして、血で血を洗う壮絶な村争いの事を日本の民族学で印地と申します。巽西3丁目9番の横野神社の碑が建っている所は昔、玉造江と云う入江の所で昔の地名は大地村字上沖田、つまり湿地を意味する地名でありますが、ここが村争いをした印の地になったもので地名は上沖田であります。
私は発行直後、図書館でこの本を見つけまして、ただちに学校におもむき当時の先生やPTAの関係者と夜の事でしたが、談判いたしまして訂正する事を約束されたのでありますが、いまだにそのままになっております。そんな事から誠に不本意でありますが、お手許のチラシを配付いたしました。
(資料21)これは巽神社誌の92頁であります。横野万葉会とゆ着している生野区役所が平成11年12月に私に内緒で「わが郷土巽を語る」と題した座談会を巽神社でしておりました。私は当時も数少ない大阪府の教育委員会の文化財愛護推進委員でありましたから、このテーマで座談会をする場合、当然私もこの席におらなければなりませんが、私にはなんの連絡もありませんでした。勿論、私以外の委員2人はここに映っております。私は偶然、天王寺の図書館で、このビデオテープを見つけましたが、案の定、四條村の楠正長史跡が大地村の史跡であると説明しておりましたので、区役所と談判を重ね、テープを回収させ訂正させました。
(資料22)四條村の平野川堤松林が中高野街道でありますが、この茶色の点線の様に大地村に取り込んでいます。また四條村をさける為にアゼ道すらなかった所に街道の印をつけております。またご覧の様に大地村に史跡が集中しておりますが、四條村にはなんの印もありません。この様に古い四條村の歴史がいたる所で歪められております。私はこのマップが区役所の玄関に置いてあるのを見つけまして早速区役所と談判し、配付を停止させましたが、又配付しておる様であります。
(資料23)これは生野区役所のホームページであります。巽神社の説明の中で横野堤を意味する山小路の山の字を消して小路天神社としておりました。これも偶然見つけまして、区役所と談判を重ねて山の字を入れさせ、山小路の天神社にさせました。池田禊さんも区役所へ足を運ばれたり、元市会議員に渡りをつけて下さり、議員事務所へも行って頂きまして、村のためにご苦労なさいました。尚、このホームページも大地村の歴史をねつ造し、四條村の歴史を踏みにじっております事から、私が右の赤い文字を書き入れ訂正を求めましたが、今もそのままだと思います。
(資料24)これも生野区役所のホームページであります。生野区の寺と題して円徳寺をはじめ他所の寺は皆載っておりますのに四條村の寺は載せておりませんでした。これも池田禊さんと区役所で談判をし、やっとのことで入れさせました。これにつきましては坊守さんも、なんべんも区役所をかけ合って下さり、大変なご苦労をなさいました。この様に横野万葉会とゆ着しております生野区役所は、ことごとく四條村の歴史を歪めておりますが、ただ僅かな字数ではございますが、山小路が横野堤であることを明記した事は画期的な事だと思っております。
(資料25)これは巽神社の鳥居の脇に立っている由緒記でありますが、先程も申し上げました様に間違いだらけで、四條村の歴史を歪めております。合祀した五ヶ村の氏神についても「大地印地 横野神社」となっておりますが、間違いであります。大地村の氏神は、ここ四條村の領内にあった八幡神社で横野神社ではありません。
(資料26)これは巽神社誌の120頁に出ていた資料でありますが、この口上ノ覚でも大地村の氏神について、「八幡宮御境内正覚寺村四條村領内ニ之有候」といっております。本当の横野神社は四條村の山小路、つまり横野堤にあった八幡神社が横野神社であります。又、五ヶ村の順番は大地村が一番で四條村が一番後になっておりますが、これは何の順番かお聞きしたいとおもっております。
(資料27)これは巽村五ヶ村の村高と村の面積の一覧であります。昔は、検地に基づいて耕地を上田、中田、下田、下々田と四つの等級に分け、それぞれに収穫率を掛けて村の石高を算出いたしましたが、四條村は豊臣秀吉が行った太閤検地の検地帳が残っておりまして、昭和58年の大阪城築上400年祭に四條村の検地帳が天守閣に展示されました。江戸時代、村力、村の規模は石高で表しましたが、五ヶ村で1番石高の大きいのは四條村で888石8斗6升3合であります。村の面積も一番、歴史も一番古いのが四條村であります。尚、巽神社合祀百周年造営30周年記念事業の趣意書も史実ではなく、四條村の歴史を歪めておりますが、その事はお手許の袋に資料をお入れしました。
(資料28)これは新巽中学校の東側の公園に立っている看板であります。中程に「応永19年(1412年)桑原寺の近くにあった天神社に隠棲し、その祭祀を掌る」とありますが、史実ではありません。後程、定願寺記録を見て頂きますが、正長が隠棲したのは国の史跡に匹敵する山小路、つまり巽南1丁目1番地であり、史実ではありません。
(資料29)これは巽神社誌の55頁に出ている生国玉神社の資料であります。ここにはっきりと手間天神社、小彦名ノ神 同、同といいますのは河内ノ国渋川郡のことで、四條村にいます横野神社印色入日子命横野堤ニイマス垂仁天皇御子也、印色入彦ノ命ハ狭山池ヲ作、その沢および横野これによってここにまつると云う。つまり手間天神社も横野神社も横野堤も四條村にありますと言っておりますのに、のせている場所は
(資料30)この通り大地村の横野神社になっております。まったく読者をバカにしていると思っております。
(資料31)これは地下鉄南巽駅改札口前の壁面に張ってある案内図であります。日本書紀で仁徳天皇の13年西暦326年に築かれた横野堤跡つまり巽南1丁目1番地を大地村の巽西3丁目9番あたりに書いております案内図を4月15日に見つけました。早速、市の交通局へ訂正を申し入れましたところ、交通局は私の説明を理解されまして、すぐに「調整中」の貼り紙をし、予算がとれ次第やり替えますと言って、パンフレットも全部訂正されました。私はこれについてもなぜこの様になったのか原因を調べてもらいたいと強くお願いをしております。
(資料32)これは山門脇に立っている看板であります。「河内ノ国渋川郡桑原庄西四條村字上田に在ったが」とありますが、定願寺があったのは字山小路であります。ずーっと来て「正長公は文中元年(1370)に生まれ」とありますが、正しくは応安5年(1372年)であります。文中元年は応安五年でありますが、応安の方が年号が古いだけではなく、正しいのは応安5年であります。「山小路に住したが、幼にして隣村四條村の桑原寺の学僧たる阿闍梨祐存に慈養せられたが」とありますが、これは微妙に受け取り方が違うかも知れませんので整理しますと、正長公は幼にして山小路に住んでおられないのでありまして、正覚寺村でお生まれになった正長公が、新巽中学あたりにあった空海つまり弘法大師がお建てになったと云う四條村の桑原寺に預けられ、育てられまして41歳になられてから山小路にお住みになり、定願寺を開かれたのであります。次に「桑原寺の傍に天神社を設けて隠棲し」とありますが、とんでもない間違いであります。天神社は既にあったもので正長が設けたものではありませんし、隠棲したのは国の史跡に匹敵する山小路であります。「同村に寺を創建して開基となる」とありますが同村ではありません。ここでも日本書紀で仁徳天皇の13年西暦326年に築かれたと云う山小路、横野神社があった山小路の姿がありません。次に「開基居住地跡は今も長宮と呼ばれ」とありますが、とんでもない間違いであります。開基居住地跡は万葉集に出てくる横野堤があった巽南1丁目1番で巽南4丁目2番付近ではありません。寺号が小丘山と言いますのも山小路の堤、横野堤にあるお寺と云う意味であります。これら一連のねつ造は何を意味するかといいますと、江戸時代中期の享保年間に幕府の役人であります並河誠所が本当の横野神社は、四條村にある大地村の神社か、それとも四條村のもう1つの神社かという事で調査に来ましたが、並河誠所は、肝心の四條村の横野堤にあった横野神社を見ないで、甲乙つけがたいと悩んだあげく、夢のお告げに巽西3丁目9に神社ではないが「印地」(村争いの地の事)と云う所がある。これにしようという事になったのであります。これら一連のねつ造は巽西3丁目9の横野神社の碑のある「印地」を横野神社にしたてる為には、四條村から横野堤である山小路を消すか、それとも並河誠所の間違いを正当化して、巽南4丁目2を山小路、つまり巽南1丁目1にしなければならないからであります。次に「定願寺は16世の時、楠氏の血脈が絶ち」とありますが、楠家は今も菊水のご紋を掲げて脈々を続き、ご住職は正長公から起算しても第20代目に当てられるめったにない古いお寺でありまして、定願寺は四條村の誇り、檀家の心のより所でありますのに、この文言は極めて不穏当で極めて遺憾であり、即刻撤去すべきであります。取り急ぎ要点のみの説明でありましたが以上で前段を終わります。
~休憩10分~
〔第二部 定願寺〕
引き続きまして、定願寺の素晴らしい歴史についてお話をさせて頂きます。
※桒原定願寺系譜参照
本山でも今はその様な扱いはございませんが、昔は寺格と申しまして、お寺間に格がございました。後程見て頂きますが、楠家はめったにない名門の旧家で楠正成公から遥かに遡って人皇第31代の敏達天皇まで遡っておられます。敏達天皇と申しますと西暦538から585年のご生存でございまして、正に古墳時代の天皇でございます。そんな事から楠定願寺は上格の上寺でございました。
又、定願寺には幾つもの秘宝が残っていますが、内陣左の余間にお厨子がございます。
その中に初代の楠正長公の座像が安置されておりますが、この力作は正長公自作の自我像でございまして、これも世に出れば、一級の文化財であると思っております。(※2012年大阪市有形指定文化財に認定)
又、お厨子の中には正成公・正行公・正儀公又、お母さんの達様、つまり、正長公から見て、おじいさん、おじさん、おとうさん、お母さんの四方のご位牌も安置されていますが、お母さんの達さんについて、定願寺に残っております別の古文書、これは歴史的にも貴重な古文書で村の宝物だと思っておりますが、この古文書に「いとやんごとなき方なり」つまり大変高貴な方であると書いておりますが、交野の出で平安時代初期の武将・藤原の秀郷の末裔であります。藤原の秀郷といいますと俵藤太秀郷のことでありますが、ちょうど名神高速道路を琵琶湖左に見て栗東あたりまで行きますと、正面に近江富士が見えますが、このあたりの神話に、この近江富士を七回り半も取りまいておりました、大きなムカデを退治なさったのが、俵藤太秀郷でありますが、お母さんの達さんはこの末裔であります。
又、ご承知の様にご院主さんは、正長公から数えて第20代目に当られますが、普段は心安く接して下さいますが、実は、東本願寺では准堂衆と云うお立場であられます。本山には、中央声明と云う機関がございますが、ご院主さんは、そこの本科を3年、更に優秀な者だけが別科に進むことが出来ますが、別科で2年修業なさいまして東本願寺の准堂衆と云うお立場になっておられます。つまり東本願寺の本廟部式務所の講師でございまして、お経の事や、儀式の事、又、作法や仏具の扱いや室飾等について、ご指導なさる教師のお立場でございまして、今もあちこちのお寺から、お経の勉強にやってこられます。それもご院主さんが准堂衆と云うお立場であるからでございます。又、本山のあの大きな本堂で報恩講が勤まります時等、三、四十名のそうそうたるお経の先生方が内陣に向って、ろうろうとお声明をおあげになりますが、ご院主さんは、このそうそうたる先生方の中に加わる資格がおありでございます。
又、ご承知の様に定願寺の報恩講の夜のお勤めは、おローソクの明かりだけで実に厳かに、ご伝書の拝読が行われますが、あのしょく持ち、じょく持ちの練り出し、練り込みの儀式は本山とまったく同じ形でありまして、末寺でこの様な正式な形で取り行われる報恩講は他にないのではないかと思っておりますが、この幻想的で厳かな行事も、下稽古や打ち合わせに音合せ、又、僧侶の手配等の下準備を含め、大変なご苦労がございます様で、存続がむつかしくなっているのではなかと思っております。(※2012年まで御伝鈔拝読をしていました。現在は子ども報恩講に変わっています)
それでは、お寺に残っております、古文書の1つ「定願寺記録」をご覧いただき乍ら素晴らしい定願寺の歴史についてご説明をさせて頂きます。ここにありますが定願寺記録の元本でございます。それでは映写お願いします。
これは先程申しました楠家の系譜でございます。敏達天皇からずっとずっと下って来てやっと楠正成公・正儀公・正長公であります、更にそれからずっとずっと下って先代のご院主さんでございます。
※桒原定願寺系譜参照
次お願いします。これは見ごとな筆はこびの表紙でございます。
※定願寺記録参照
次お願いします。これは初代から九代までのご生存の年譜でございます。後程ご説明いたしますが、これをお書きになったのは、8代目の正恵師のご長男で、東淀川の三番村の定専坊へ行かれた正宇とおっしゃる方が、代々伝わっている話や、書き残している記録や、又、親戚にある記録やらをもとに、今から約300年前の宝永5年に書かれたものでありまして、9代目の正意師はお書きになった、3番目の弟さんがお継ぎになっておられます。
又、10代目のお生まれになった年月は後に書きたしたものであります。ここにあります様に、初代は楠左馬頭正儀の三男で定願坊、兵衛の尉正長公は先程申しておりました様に文中元年ではなく、応安5年みずのえねえのお生れでございます。昔は年号を甲、乙、丙、丁、戊、已、庚、辛、壬、癸の十干と子、丑、寅、卯、・・・の十二支を組み合わせて現しておりました。例えばあまり評判が良くありませんが、女性の丙午(ひのえうま)は60年に1回の周期でめぐってまいります。次お願いします、河内ノ国渋川郡桑原庄西四條山小路云う所は楠三郎兵衛の尉(じょう)、尉は身分の高い人に付ける称号であります。正長の住み居し所なり、この所に鎌倉鶴岡の若宮八幡を勧頂し奉るなり、又、後醍醐天皇の宮、後村上院の宮、この三社を営造たてまつり尊敬す、八幡宮は楠先祖の氏神なり、つまり、初代の楠正長公は山小路つまり巽南1丁目1番にお住みになって、楠家の氏神である鎌倉の鶴岡八幡これはご承知の様に、源氏の源の頼朝の神社でありますが、それに後醍醐天皇の宮、後村上院の宮を造って日々うやまっておられた。
西四條と云う事正恵師筆記にいわく、家に伝えていわく、上古は此四條村山小路は野原にして丘堤あり、8代目の正恵師が書き残している様に又、家に伝わっている様に往古の昔、山小路は野原の中に岡堤があった。私はこの古文書でわずか20字でありますが、この20字が一番大切な個所だと思っております。
定願寺の別の古文書
※開基正長ニ係ル記録巻物参照
これは大変な歴史書でありますが、それには、この山小路の岡堤について図を書いてくわしく説明していますが、ここでは、横野堤であります山小路の様子をこの様にあらわしております。
※再び定願寺記録参照
ズーット行って、父舎兄正行類葉とありますのは、お親さんの実の兄弟と云う事で、正行と同様と云う意味であります。つまり、正長公が四條縄手はじめ、一族が討死された跡地を弔ってまわられた事を書いております。「西四條と云うされば東の四條に対しての名なり、西四條村と云は、本は、山小路一ざんの在名に限るなり」つまり西四條と云うのは、山小路だけの地名であるとはっきりと云っておられます、「若宮殿と云うも楠家の鎮主なり」「しかるに三、四代後兵衛願了の時代、永正年中ノ後にこの四條村に家多くさけにけり」つまり永正年間といいますと、西暦1504年から1520年で例えば織田信長の生れるずっと前の話でありますが、その頃は四條村は家も多く栄えていたとあります。
この所は先程説明しました所で、変電所のあたりにあった数軒の屋敷が山小路へ引越されたので東四條がなくなり、東西の区別をする必要がなくなったと云う事であります。次は「それゆえ、織田長公(織田信長の事であります)より御宗旨へ御たたりあり」今の大坂城の所に蓮如上人が石山本願寺をお建てになっておられますが、あそこを石山と申しますのは、聖徳太子が四天王寺を建立された時に下から出て来た石、又、残った石を上町台地ぞいに北へ、台地の北の絶ぺきになりますが、今の大阪城のあたりが石捨場でありました。そこに蓮如上人が石山本願寺をお建てになったんでありますが、要塞にするには、そこが絶好の地であったのでありまして、「御宗旨」つまり浄土真宗へなんぐせをつけて開け渡しをせまって石山合戦が起ります。いわゆる一向一揆であります。蓮如上人は、御文の第1帖の15通で我々のことを一向宗・一向宗と云うが、親鸞聖人以来、我々は我々の事を一向宗と云うた覚えはない、あくまでも浄土真宗であるとおっしゃっておられます。
「ことに桑原兵衛正近は左弓ノ達者」正近は5代目の方であります。又、ご承知の様に昔から日本では右左は左を尊び優先する習しがございます。左大臣は右大臣の上、左近の桜、右近の橘もそうでありますし、ヒナ人形の飾り付けも内裏様の雄びなが向って右、舞台の上下も向って右が上手になります様に、武道も弓が上格であった様であります。「大坂(土の坂は大ざかとにごります、こざとの阪になったのは明治4年の事であります)籠城のかたわら緒人に知られし人なれば、この所に安ども自由ならずして、今の平野の内、今林村と云へとんし、かくれ又、門徒もこの所へにげおるゆえ、西四條たえだえになりすればかの在所より移ると云う、今に居る大念仏宗これその家なりと」つまり5代目の正近公は弓の達人で知られ、四條村におちおちと住んでおられないので、平野郷の散郷である今林村に逃げかくれたが、門徒もいっしょになって今林へ逃げてこられたので、四條の西の方はがらんどになったが、そこへ他所から移ってこられたのが、今に居られる大念仏宗ノ家(※現:融通念仏宗)である。
「又、平野領内へかくれると云うのは、平野は佛光寺(これも浄土真宗のお寺でありますが、平野は信長も秀吉も家康も皆別格扱いでだれもお手出しはしませんでした。治外法権で単なる環濠集落ではなしに、ギリシャで云う都市国家、つまり自営都市でありましたから、佛光寺は浄土真宗であり乍らどちらかと云うと信長頼りでございました)の門徒なるゆえ平野と言えば長公より御免あるゆえなり」つまり今林村は平野の散郷であるから信長も手出しはしなかった。「又、今林村の道場(お寺)と云はその時正近西願のいん所なり、(今林村の道場は正近公のかくれ家であった)それゆえ世静りで、その所を道場に取り立て(戦がおさまってかくれ家をお寺に取り立て)「今、四條に安置たてまつる御本尊両脇名号両はばかけたてまつり毎月28日の御講」この下りは庫裏にございます楠家のお内仏の様子そのものであります。
庫裏のお内仏に安置されておりますお木佛は東大寺南大門の仁王像で有名な鎌倉時代の佛師運慶の作ではないかと云われております。
その本尊の両脇に名号がかかっておりますが、本来は向って右、つまり左側が帰命尽十方無碍光如来の十字名号で、向って左つまり右側が南無不可思議光如来つまり九字名号がかっております。又、今月28日の御講とありますのは、親鸞聖人の命日は11月28日でありますので、これから先もちょいちょい28日が出てまいります。今林の道場の方も四條とかけもちで法事をつとめられたと云う事であります。「しかるに大坂乱後より惣道場になるなり」つまり石山合戦は1570~1580年でありますが、戦が終って四條村の道場が惣道場になったと云うことであります。
次に「検地と云う事天正17年より豊臣公打ち始めたもうなり、信長公の時あては知行割と云もたとえば東は山、西は川、南北とてさのみ朱印・手形も取らず事なり」検地打ちと申しますが、竹竿や縄をサシにして打ってまわって寸法を計りますが、天正17年より豊臣秀吉が太閤検地を始めました、この時の四條村の検地帳が桑原家に残っておりまして、昭和58年に大阪城築城400年祭がありましたが、天主閣に四條村の朱印のついた検地帳が展示されております。信長の時代は、税の取り立ても東は山や、西は川や云うてきっちりとせず、厳しくなかった。(飛ばして)これは4代目の正治と云う方の三男で「三郎、後に桑原藤兵衛尉正道ト云、これは、天正4年(1576)摂州平野庄・市ノ橋ト云う所にて箕浦じょう右衛と云者と戦 互に討死セリ」楠家と箕浦家とは南北朝時代からの宿敵でありまして、この時も平野の市ノ橋、つまり国道25号線平野京町の所、25号線は右へ曲り八尾街道がまっすぐ東へ向います分れ道の所に、平野川と25号線が交っている所の橋で、平野市町にかかる橋で、市の橋と呼ばれておりましたが、現在は百済橋と名前が変っております。そのたもとで戦があって互いに討ち死したと云う事であります。「是ハ平野庄泥堂町ニ居住 角屋敷」昔は表札がありませんから、この様に角屋敷と言っております。
次「大谷本願寺 釋実如 御判 方便法身尊像 永正14年ちょうちゅう8月28日 河州渋川郡桑原庄西四條村願主 釋願了」とあります。実如上人は8代目の蓮如上人のご子息で、9代目のお上人のご印のある方便法身尊像とありますが、たぶん方便法身尊像だけでは木佛尊像なのか、絵像なのか、名号なのか、解らないと思います。以前、お説教の先生が阿弥陀様のお姿はなぜ見えないのかとおっしゃった事がございましたが、本来、阿弥陀様は目には見えませんが、宇宙空間どこにでもおられて、方便法身尊像を通して、お会いする事が出来るのではないかと思っております。又、蓮如上人は尊像について、木佛尊像よりも絵像、絵像よりも名号が大切だとおっしゃっておられますが、ここに出ております方便法身尊像は絵像でございます。この寺宝も世に出れば1級の文化財であります。
(※2012年大阪市指定有形文化財登録)
次に「厳父 正恵師(8代目)筆記にいわく、さきの親 正雲かねてよりつげていわく 今昔を思うに四條村道場に安置の御尊像は大幅一貫余の御本尊にて蓮如上人の御裏書これは大坂寅卯の兵乱に失いたもう」つまり正恵師は厳しい父であったが、父の記録に先代の父、正雲(7代目)はかねがね云うておったが、四條村の道場に安置の御本尊は大幅一貫あまりの御本尊にて、つまりこのご本尊は幅一貫すなわちご本尊だけで横40.3センチ 丈98センチの蓮如上人の裏書きのある掛軸でありますが、大坂寅卯の兵乱と申しますと寅の乱が慶長19年の大坂冬の陣・卯の乱が翌年の元和元年の夏の陣でありますが、2つをひっくるめて大坂の乱の時に失いたもうとありますが、更にこのご本尊は、田舎者に大坂の乱の折、誉田八幡さんの東の一院に預けて置いたご本尊を奪い取られ奥州へ持って行かれたが、夢のお告げで河内四條へ帰る寺があるとわかり、彼の国夫が大竹を2つに割ってそれにご本尊をはさみ入れて正保年中に持って来たご本尊である。また、近年おおよそ半年ばかりかくれたもう処 ひとり御帰在と最もあおぐべき真の霊像なり。「六代正西は持病疝気この故に折々有馬へ湯治と云」6代目の正西師は持病の腰痛でちょいちょい有馬温泉へ湯治にいっておられたが、慶長18年5月14日 56歳にて死去され自筆の辞世今にこれ有り。「人間のゆめの浮世を過ぎ行きても、無為のたのしみさてもうれしき」「辞世としよりのうれしきことのあまりにて南無阿弥陀仏のむつ(6文字)をとなえん」「無為」と申しますのは佛縁のことでございまして、「迷い多かった現世から離れ(死)、これからは佛様と縁を結べるところへ行くというのは、楽しみであり、何とうれしいことであるよ」といって亡くなっておられます。
「墓所は出戸村の三昧なり(出戸村に三昧と云う地名はないので念仏三昧のこと)引導は遺言として平野庄流町道場専念寺の由」「兵衛正長と云は左馬頭正儀の三男なり、正儀の子息その一は多聞丸、是は三番浄専、二は左馬頭正勝、その三正長なり後に入道大谷本願の法流を汲む是桑原定願寺元祖たり問うていわく楠氏族なり、殊に代々その器量才徳(力量や才能)等人に勝りたり、何ぞ奉公等せざるや(なんで役人なんかになれるか)谷本願寺(大の字をもらす?)へ帰入して法流を汲む正長より代々かくのごとく」
(ずーっととばして)9頁「正西の妻女おみつ女是は古市郡誉田ノ里八幡宮の鍛冶一口(いもあらい)兵庫という人の女子なり天正5年誕生なり文禄元年16歳にて正西35歳のとき嫁がせり男女9人の子をもうけると云う その内在住は正雲と小督女と二人なり寛文元年かのとみい9月4日亥初の刻84歳 寛永16年11月3日大坂難波の御堂 宣如上人ごていとう落髪法名妙誓と御免63歳の時なり」つまり6代目正西師の奥さんであるおみつさんは古市の誉田八幡の刀鍛冶(当時、刀鍛冶は最も身分の高い職種であった)いもあらい、ひょうごと云う人の娘で天正5年(1577)の生まれであるが、文禄元年(1592)16歳で35歳の正西師と結婚して男女9人の子供が生まれたが、その内四條におられるのは正雲と小督(おごう)の二人だけである。おみつ女は寛文元年(1661)9月4日84歳で亡くなられたが、生前中の寛永16年(1639)11月3日大坂難波の御堂で宣如上人自らのおかみそりを受け妙誓の法名を頂いたのは63歳の時である。
(ずーっととばして)「今村五郎兵衛これ本家なり、妙慶の隠居所この所に有り 泥堂すじ南側後に了順と云う この内(奥さん)は碁所の安井六蔵、後には安井算哲なり本因坊弟子なり、安井宗雲と云う有、尾州殿の碁の打なり」つまり7代目である正雲の奥さんの里の今村五郎兵衛は本家筋で妙慶の隠居所も平野の泥堂筋の南側にあった後に了順と云う奥さんは囲碁の大御所の安井六蔵、後には安井算哲なり(当寺、囲碁の最高位であります本因坊家は世襲制でありました)つまり本因坊の弟子である。又、安井宗雲と云う人がいるが、この人は尾張の殿様に囲碁を教えている。ご親戚もそうそうたる方々ばかりでありますが
(ずーっと行ってこんな事も書かれてあります。)「今村仁兵衛知商(ともあき)、妻女はおすてと云 従弟(いとこの事)の間と、これは松屋二左衛門女房の伯母なりと云、岩城(秋田県の岩城)内藤帯刀(たちわき)殿へこの二兵衛務めに出られにけり、これにより今村家栄えるなり因帰算韻集(いんきさんいんしゅう)二巻、竪亥録(じゅかいろく)五冊自記なり、今板行に有、惣(すべ)てこの仁兵衛器用利発その名残600石か(?)」つまり、今村仁兵知商の奥さんはおすてと云うが、いとこ同士の結婚と云うがこれは松屋二左衛門の女房の伯母であると云う、岩城の殿様である内藤帯刀殿へ、此の二兵衛初めて秋田へ出て行かれた。この頃より今村家は大変栄えた。因帰算韻集二巻、竪亥録五冊を自分で書かれたが、今は板行に有る。すべてこの仁兵衛うまくもの事を処理したからそのおかげで年俸は600石(600石=6000斗×15k=お米90000k)か?当寺の貨幣価値・物価価値を現在の価値に換算する事は不可能でありますが、年俸600石は米90000Kgであります。当時、小判は上級武士の間で使われたり、又、江戸時代のはじめ頃は1両あたり10万円に相当すると云われましたが、江戸時代も終わりに近づけば、1両が3万円ほどの価値しかなかったと云われております。又、主として商人が使った銀は、秤量貨幣で1両小判1枚=銀50匁(もんめ)=銭形平次の投げる銭1000枚つまり銭一貫文と同じであることは間違いありません。このあたりに出てまいります楠家のご親戚は、各れもそうそうたる上級武士で抜群の高給取りであります。
今村知商は和算(日本の数学)の第一人者で今、大学でやっている高等数学や幾何学の草分けの大数学者で、阪大でもこの人の事を研究していると聞いておりますので、この古文書の事を知れば大変よろこばれるのではないかと思っております。掛け算の九九や割り算の九九もこの人が歌にして出したと云われております。次に二兵衛尉の子の長男今村庄右衛門つまり本は、新四郎と云のは年俸350石つまり米52500K取り、二男八郎左衛門は新太郎と云うが、これは御勘定頭の曽根源左衛門に務めていたが、その後、帯刀(内藤帯刀)殿へ務め、八郎左衛門の子新平と云う。又、三男の今村新吉は13歳14歳の時、内藤市之正の小姓で市之正が、病死したので追腹つまり後を追って切腹した。とあります。又、今村家のおいと、つまり妙雲尼は定願寺初代兵衛の尉正長公より血脈相続第7代目の正雲へとついで来られた。ずーっと家族関係が書いてありますが、時間がございませんので飛ばせて頂きます。
ここにこんな事が書いてあります。「又、飛檐御免 慶安元年子11月朔日己刻正雲」昔は軒のひさしを支えるタル木は地ダル木は許可無しに出来たのでありますが、地タル木の上にひさしにソリをつけるために飛えん垂木を重ねますがこれは勝手に出来なかった。つまり贅沢でありますので、格式のある建物でなければ施せなかったのでありまして、慶安元年(1648)に増築か改築の折に許可が降りたと云う事であります。11月朔日(ついたち)午前10時 正雲とあります
ずーっと行ってこんな事が書いてあります。「今に七右衛門とぞこの内室の死去日は十日なり、年月は知りがたし、又、六右衛の先父は又右衛門と云う。法号西願と云う顕如上人御免のご本尊の裏に西願と有と」つまり、七右衛門の奥さんの死去された日は十日であるが、年月は解らない。又、六右衛門の父は又右衛門と云い、法号は西願と云う。顕如上人(第11代の顕如上人が石山本願寺を信長に開け渡すべく退散されますが、その後もご長男の教如上人が籠城し、本願寺は籠城組と退散組に分かれて内紛が起こります。これが本願寺が東西に別れる原因になりますが、結局、石山本願寺は信長の手に落ち開け渡しの折り、大伽藍は焼け落ちてしまい、一旦は教如上人が12代目をお継ぎになりますが、翌年秀吉命で四男の准如上人が西本願寺を、そして真宗大谷派は教如上人が始祖になられるのであります。尚、今も寺町には沢山なお寺がございますが、石山合戦以後も浄土真宗を恐れ、現在でも寺町に浄土真宗のお寺はございません。)のお許しのある御本尊の裏に西願と書かれている。
時間がございませんのでずーっと飛ばしますが、ここにこんな事が書かれております。「第8代桑原正恵師 是 四條定願寺相続なり、正恵小ちょろ女、男女子。一、宇の太これは寛文3年(みずのとう)正月21日生 延宝7年(ひつじ)7月13日大坂三番西光寺、今は定専坊と云へ実名正宇、法名了正と云う 年17にて入院 正恵師曰三番桑原其の本1つなればなりとこれらの事一二に別記あり定専坊子 元禄15年6月夜生女子いよ元禄16年11月9日夜生」つまり桑原正恵師が第8代目として四條の定願寺を相続した。そして正恵氏と奥さんの小ちょろ女の間に男と女の子あった。1番目の子は宇之太これは寛文3年(1663)みずのとう正月21日生まれる。延宝7年(1679)ひつじ7月13日大坂の三番村の西光寺、今は定専坊と云う所へ行った。実名は正宇で法名は了正と云う。年17で入院とありますが、僧侶が寺に入り住職になる事を入院と書きますが、寺院文書の場合は呉音読みをしますので入院(じゅいん)と発音します。又、文中「正恵師曰 三番桑原其本1つなればなりと」とありますのは、楠正儀のご長男つまり正長公のお兄さんが既に三番村の定専坊へ行っておられるのでもとは1つであるといっておられます。又「いよ」と云う女の子は元禄15年に生まれておられるが、その年の12月14日に四十七士の討入りがありましたが、これは旧暦でございますので、今の暦で行きますと1月31日午前3時頃の出来事でございます。又、この正恵師の第三男、文三郎と云う人が桑原庄四條定願寺血脈相続第9代目の正夷(しょうい)と云う。又「正西師よりいまだ出戸村に居住、四條道場ハ留主居僧居、この正夷の内(奥さん)は今村善左衛門妹女おちやう」とあります様に、六代目の正西師の時から四條村に留守居僧を置いて出戸村(東出戸村のこと)に入りびたりでございまして、正恵師には10人子供がおられるが10人とも出戸村でご出産されておられます。
先に「出戸村の三昧なり」とありましたが、出戸村は念仏三昧と云う事だと思っております。又、奥書(最後の刊記)に「右厳親正恵師書きたもう記録の写なり、あわせて古記を所々に書き入れあわせて愚案(おろそかな案)また近年の氏族書そえるものなり 宝永5年戊子(つちのえね)弥生(やよい3月)中頃 定専坊正宇 花押」つまりこの貴重な村の宝物であります古文書は、古い記録などを基に今から300年前の宝永5年(1708)東淀川の三番村へ入られた第8代目のご長男正宇と云う人がお書きになったものであります。また、最初(二頁目)の歴代の生存年譜の9代の死亡年月と10代目の誕生年月は後につけ加えられたものであります。この定願寺記録は単に定願寺や四條村だけにとどまらず貴重な歴史資料であります。
以上、時間の関係で飛び飛びになりましたが、説明を終わります。長時間ありがとうございました。
合掌