定願寺の歴史
定願寺に伝わる古文書・定願寺記録(大阪市指定文化財)によりますと、定願寺のはじまりは親鸞聖人がお亡くなりになって150年後、室町時代の1412年、戦国の武将・楠正成の孫にあたる、楠正長が道場を築いたのが始まりです。すでに600余年がたつ大変古い歴史を持っています。
定願寺記録や開基正長ニ係ワル記録巻物(共に大阪市指定文化財)より、少し説明させていただきますと平野川〈昔は百済川と言った)は現在の東部市場の先、田島墓地のあたりから入り江になっていました。その入り江からおおよそ110m程、東西にかけて大きな堤がありました。平野川の堤に対して、人工的に作られた堤がありました。
この写真は開基正長ニ係ル記録巻物の一部ですが、写真右が方角の北で左が南になっています。また道のように書かれている物は堤であります。写真は現在の大阪市生野区巽南1丁目1番を指しますが(現在の定願寺の位置とは異なる)、この巻物によりますと後醍醐天皇・若宮八幡御殿・後村上天皇宮(この古文書が書かれた時にはわからなかったが、現在いろいろな文献や古文書よりこの神社が横野神社である)とあり、その脇に正成、正行、正儀の廟があったと伝えられています。道場ココニアリとありますが、ここに定願寺がありました。この一角の地名を山小路といい、小高い丘堤の上に建立されていたことから山号は小丘山とついたそうです。
また永正14年(1517年)8月28日に4代目の楠正治が大谷本願寺・実如聖人(9代目門主)により方便法身尊像を受け、現在の真宗大谷派の寺院となりました。
(実如上人裏書きの阿弥陀絵像(大阪市重要文化財))
600余年の間、多くの先人のお力により、今日までこの定願寺は守られてきました。当定願寺は大阪市史跡寺院に指定されていますが、2012年には仏像・掛軸・古文書・巻物等9点が大阪市指定文化財に認定され、貴重な文化財として今に伝えられています。
また平成14年4月には本堂・山門・庫裏の新築工事を行いました。この600年の時代背景には様々な危機を乗り越えて来られた歴史がありました。
戦国時代は阿弥陀仏像を今林村に安置し一時的に定願寺の本堂を移し、門徒も今林村にて生活された時もありました。度重なる飢饉を乗越えた時もあり。又、平野川の氾濫、水害によって流されたお寺の柱を集め、再び復興する時もあり。戦争中、爆撃に脅えながら手を合わせた日々もあり。老朽が進み門徒が一致団結をして復興した時もあり。
幾度となく、生活を脅かす歴史背景があったのにも係わらず、お寺は村の柱、生活の柱と語り続けられ、定願寺を支えて下さった歴史があります。
今から六百年を遡り、歴代の住職や御門徒の先祖の方々が大切にされてきた親鸞聖人の念仏の教え、本願念仏を受け止め、先祖の方々を偲び、現在の私たちが今こうして生活できていることに感謝し、又これから先の未来へ伝統と文化を伝えていきたいと思っています。