「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要」「定願寺創建六百年記念法要」「定願寺開基楠正長五百五十回忌法要」「定願寺復興十周年記念法要」という4本の柱の元、50年に1度という大法要を行いました。
四條門徒総代を始め、実行委員会の方々を中心に数え切れないほどの沢山の方の御協力の下、この法要を向かえることが出来ました。どなたがかけてもこの大法要は成功しなかったと思っています。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
また、沢山の御寄進や志、お祝いを頂戴しました事、重ねて深く御礼申し上げます。
思い返せば法要をするにあたって沢山の問題に1つ1つコマを進めていくという事の繰り返しでしたが、その中には学びと感謝が沢山ありました。
寄進のお願いをさせて頂いた時に
「未来の方へ仏具を伝えたい」と言って頂いた御門徒様。
「少しの協力しかできないけど、本当の意味で良き法要になってほしい」と願われた御門徒様。
「代々この伝統を伝えてほしい」と言ってくださった御門徒様。
それぞれのお一人お一人の気持ちを賜り、50年に1度のイベントにならないように宗祖の教えと願いを込め、この日を迎えました。
ある日、住職が「この定願寺でこのような大きな法要を勤める事はもう人生で最後だな」とつぶやいた時、この大法要が本当の意味で特別な法要である事を感じました。その時に私は「住職の思うように法要をすればいいのでは」と言った記憶があります。
しかし、日にちがたつにつれ、私自身の気持ちが少し変わってきました。「住職だけではなく、自分にとってもこの50年に1度の法要は人生で最後になるかもしれない」と。
50年後は90歳手前です。生きているかどうかもわからないし、生きていたとしても現役でバリバリというには難しい事だと思ったのです。
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし
親鸞聖人がお書きになった和讃(恩徳讃)ですが、阿弥陀様が私たちに向かって「いつでもあなたのそばにいます。必ず救いましょう」という計り知れない慶びの教えと、それらを伝えてくださってる沢山の方のご縁に感謝の心を読まれた和讃を読ませていただきました。
今回の法要の1つの柱に「定願寺創建六百年記念法要」を掲げていますが、定願寺ができて600余年が経ち、この600年の間に何百回に渡って恩徳讃を読まれてきたことだと思いますが、100年前の住職も、300年前の住職もきっと同じ事を願われたと思います。
阿弥陀様に手を合わせ、その姿を子や孫に見せるといった何でも無い日常の姿こそに、教えがあるのだと思います。
本日、大法要は終わりましたが、皆様にとってここから更に600年、念仏相続が続きますよう念じます。
また、今後も今まで同様に定願寺を支えてくださいますようよろしくお願い致します。
合掌