小丘山(しょうきゅうざん)とは

小丘山(しょうきゅうざん)定願寺の山号(さんごう)である小丘は字の通り小高い丘を指します。
昔は巽南1丁目1番あたりに人工的作られた堤(つつみ)(西暦326年 仁徳天皇13年に天皇の命令で作られたとされる丘堤)がありました。

平野川は現在は巽南と今林を結ぶ橋がかかっていますが、それよりも北側、東部市場を通るように西の方へ急に曲がって(フルタ製菓さんの方へ)いますが、昔々の大昔は今の田島のお墓あたり?から北側にむけて入り江になっていたそうで、その平野川の入江の手前からおおよそ一町(いっちょうと読みます。おおよそ110メートル)ほどの長さで東西にかけて堤がありました。

平野川の堤は南北にかけてありましたがその堤を縦に見立てて縦の堤、東西にある堤を横の堤と呼ばれていました。

その横に向う堤から見渡す景色は非常に美しく

「霜枯れの横野の堤風冴えて入汐遠く千鳥鳴くなり」(藤原光俊・続古今和歌集しょくこきんわかしゅう)とありますように堤から見た景色を歌われております。(この続古今和歌集は鎌倉時代なので1200年代の作品です。定願寺の誕生は1412年ですからその頃はまだ入り江だったようです。)

定願寺が所有する「開基正長に係る記録巻物」(大阪市有形文化財)によるとこの堤には、後醍醐天皇宮、若宮八幡御殿、後村上天皇宮があると書かれていますが、つまり神社(現存すると国宝級の神社です。後の文献などの研究から横の堤にあるから横野神社と呼ばれた事がわかる。先ほどの和歌と同様に横野のつつみにある神社だから横野神社と言った)があり、その神社の隣には楠正成・正行・正儀の廟、つまりお墓があった。(余談ですが定願寺にはこの3名と正長の母を合わせた4名の御位牌があります)

また、定願寺開基の楠正長の屋敷、道場(定願寺の事)があったと地図と説明書きが残されています。(スーパー万代の南側から見える景色の全てが神社やお墓やお寺だと想像すると凄いと思いませんか?)

大阪城落城の時(つまり大坂の陣、夏の陣・冬の陣ですから1614-1615年)の時、平野から勝山(今の生野区役所のあたり)に一夜にして大道を築いたとありますが、要するに道を作ったとあります。

つまり平野川の横にあった広大な規模の丘堤の土を使って一晩にして平野から勝山まで道を作ったために今はその丘堤はないが、山小路という名称として残していると書かれてあります。
当時の方は天皇の命令で作られた堤ということを知らなかったようです。
最近になって古文書など様々な古い資料が解析されたことからこれらのことがわかってきました。(巽南に水時橋という橋がありますがそのご近所に住まれている岡田さん(元教育委員会・歴史研究専門)という方が定願寺や平野川の研究をされていまして講演などもされていました)

また定願寺の門徒さんで故、林千代乃さんという方がいらっしゃいまして、その方が子どもの頃(昭和初期)は今のスーパー万代巽西店のあたりに遊びに行く時は「山小路に行ってくる」というような使い方をしたと私におっしゃってくださいました。(昔の地名は四條村字山小路)

今はこのあたりには跡形も何もありませんが、万代の駐車場の南側から南の方を見ると1メートルほど駆け上がっているのがわかります。

また田島中学校から東部市場に向かって交差点の手前から南の方を見ますと道路が少しずつ駆け上がっているのがわかります。

この地形こそがまさに小高い丘があった名残りで山小路の名残と言っても良いと思います。

この写真は荒れ果てたお地蔵さんの祠です。巽南1丁目1にありますが、この辺りが定願寺の元々あった場所だそうです。

石碑も何もなく荒地となっているのは非常に残念です。

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