数日前に門徒さんの家にお参りに行った時に撮らせていただいた写真です。
立派な七段飾りのおひな様です。お孫さんがお生まれになったそうで、お飾りしたそうです。おめでとうございます!!
うちにもあるのはあるのですが・・・準備も後片付けも大変で、いつもお内裏様とお雛様だけが多いです(^^ゞ
Wikipediaによると御雛さんって結構歴史も古いんですね。ちなみに・・・今日の夜ご飯はちらし寿司だそうです。
若院は・・・花より団子です(笑)
合掌
御門徒さんのお家にお参りに行っていると色々な庭を見る機会があります。
今回は2つ紹介させていただきます。
御門徒さんの家にある庭の松です。
携帯のカメラで撮影しているので逆光で見にくいのですが、この松はお家の方によると樹齢数百年の松らしいです。
かつて、このお家のあったあたりに定願寺があったのですが、まさに山小路といわれる地名の名残にふさわしい松の木だと思います。
そして別の御門徒さんの家にある梅です。
庭を抜けてから玄関に行くお家なんですが、すごく梅の良いにおいがしたので思わずパチリ。もう終わりかけとのことですが、若院今年初の梅でした。
都会にいるとついつい花や緑を忘れがちになります。特に梅の花は季節を感じて良かったです。
合掌
今回も3月の親鸞聖人750回御遠忌関連で訪れました。大阪よりも若干空気が冷たく京都に来たなという印象でした。
昨年、御門徒の方にお願いをして仏具を購入するための、又、法要をするための寄進をお願いし沢山の御寄進を賜りました。その中から東本願寺発行の三帖和讃本を購入してきました。
その本を購入するに当たって約1時間の待ち時間がありましたので、東本願寺内の参拝接待所を色々見学していました。
まず、目についたのはお焼香の仕方が書いている説明です。
写真の通りですが
1 御本尊を仰ぎ見ます。(この時は合掌はしません)
2 左手を焼香卓端に添え、右手で御香をつまみます。
3 香炉に入れます(2回いれます。御香を頂いたり、手首を返したりはしません。御香の煙をあおぎません)
4 左手で御香の乱れを整えます(まだ右手は焼香卓に添えたままです)
5 合掌をします。
6 合掌を解き、頭礼します。
知っているようで知らない焼香の作法です。皆様はどうされていますか?一度ご確認ください。
マッチ棒で作った御影堂門です。まだ未完成だそうですが名古屋教区の御門徒の方の作品だそうです。マッチ棒を1万本はゆうに超えて組み立てられているそうですが、制作途中で作者の方がお亡くなりになり、ご家族の方の希望で完成はせずにそのまま御寄進されたそうです。
私もこの御影堂門は本山奉仕団で何度も登り、掃除をしたことがありますが本当によくここまで作った物だなーと思わず写真を撮ってしまいました。
そんなこんなで色々見ていると、和讃本の準備ができ担当の方が参拝接待所内の阿弥陀様の前に来て下さいと案内してくださいました。
三帖和讃とは、親鸞聖人がお書きになった「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末和讃」の総称でありますが、一般的には「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり 法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり(浄土和讃)」が有名ですが、お寺の内陣で向かい合わせに座った僧侶が開いて読む本をこのたびの御遠忌法要を機縁に新調させていただきました。
東本願寺の方によると、この和讃本は、扱いをおろそかにしてはいけないという理由から、お寺へ直接配送することは出来ないそうで、東本願寺か別院にての販売となるでそうです。大切に使わせて頂きます。
合掌
16年ほど前から趣味でボウリングをしています。(ちなみに住職はボウリングしていません)
去年の1月にホームグラウンドだったくまたボウルがなくなり、現在は弁天町グランドボウルとボウルアロー松原に投げに行っていますが、独身の頃と違ってなかなか思うように投げる事ができませんが、健康と趣味を兼ねて今でも週1を目標に投げています。
今日は2週間ぶりに夜の試合に出ました。
練習ボウル~1ゲームは、感を取り戻すような投げ方を心がけ、2ゲーム目からは、”ボールの重さで振り子”を心がけて投げました。
ハンデ10ピン×4G分あるのでなんとか上位入賞と・・・頑張った結果
個人優勝とハイゲーム賞を頂きました!!
普段あまり運動をしないので適度な運動と良い息抜きができました。
合掌
私にとって大切な人が今日亡くなりました。35歳の短い人生でした。
自分も彼もCHAGE and ASKAさんが大好きでした。
その彼が好きだった曲、askaさんの「けれど空は青」を今日はBGMできいています。
残らずに 残さずに 心のあるままに 向くままに
信じれば 信じれば いつもの空
手も振らずに別れた 思い出色した夢たち
もしも涙で色が消えても けれど空は 空は青
「けれど空は青 ~close friend~」作詞:飛鳥涼より引用
私の中で彼はいつまでも生きていくことでしょう。これよりお通夜に行ってきます。いままで本当にありがとう。
合掌
私にとって大切な人が病で入院し、毎日が山と言われて数週間がたちます。
去年の年末あたりからは、もう治療の施しようがないそうです。
怪我や病気をした時など、ふとした時に思うことがあります。
当たり前って思っていたことが実は特別だったんだと・・・・・。
白骨の御文という有名な御文があります。原文は少し難しいのでwikipediaより白骨の御文の意訳文を紹介させていただきます。
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さて、人間の内容の無い生活の様子をよく考えて見ますと、およそ儚いものは、人間の生まれてから死ぬまでの間のことで、それは幻のような生涯です。
それゆえに、いまだ一万年の寿命を授かった人がいたなんてことを聞いた事がありません。人の生涯は過ぎ去りやすいものです。今までに誰が百年の肉体を保ったでしょうか。〔人の死とは、〕私が先なのか、人が先なのか、今日かもしれないし、明日かもしれない、人より後であろうが先であろうが、草木の根元に雫が滴るよりも、葉先の露が散るよりも多いといえます。それゆえに、朝には血色の良い顔をしていても、夕には白骨となる身であります。もはや無常の風が吹いてしまえば、即座に眼を閉じ、一つの息が永く絶えてしまえば、血色の良い顔がむなしく変わってしまい、桃やすもものような美しい姿を失ってしまえば、一切の親族・親戚が集まって嘆き悲しんでも、どうする事もできない。
そのままにはしておけないので、野辺に送り荼毘に付し、夜更けの煙と成り果ててしまえば、ただ白骨だけが残るだけです。哀れと言っただけでは言い切れない。人生の終わりは、年齢に関わりなくやってくる。だからどのような人も「後生の一大事」を深刻に受け止め、阿弥陀仏から他力の信心を頂いて、念仏申すべきであります。
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「生まれる=いつか死ぬ」は自然界の当たり前の話で解っているつもりです。でも、なかなか理解できないものです。
いつまでも元気で生きていることが当たり前だと思っているからです。
毎日の日々の当たり前こそが特別なのかもしれません。
合掌